第六十二通り目 Piazza della Parte Guelfa e Via Pellicceria
(教皇党の広場とペッリッチェリア通り)
62番目の通りは、Piazza della Parte Guelfa(教皇党の広場)と、そこから街の中心Piazza Repubblica(共和国広場)につながるVia Pellicceria(ペッリッチェリア通り)です。
ペッリッチェリア通りを背にして教皇党(またはグエルフ党)の広場を見ると、奥に教皇党の本部の館、左手にには、Chiesa di Santa Maria Sopra Porta(サンタ・マリア・ソープラ・ポルタ教会)、右手にはPalazzo Canacci(カナッチ宮)があります。
1267年、教皇党はフィレンツェで最有力の党でした。
しかし、まだ本部を構えるには至らず、集会はサンタ・マリア・ソープラ・ポルタ教会で行われていました。
そこで本部の建設計画が浮上、1300年前半に本部の建物の核になる部分が建設され、その後、年月を経ながら増築されていきました。
建設当初は、1階に5つの工房、店など、2階に集会のための広間がありました。広間へは外側に設置された石の階段からしか入れなかったそうです。
増築を繰り返しているため、建物と建物が連結されたような複雑な建築になっています。
内部はそれぞれ広い広間で独立しています。
第二次世界大戦などで被害にあったりしてはいるのですが、何度かの修復を経て、現在の状態を保っています。
現在、カルチョ・ストーリコの本部として使用されているほか、広間では文化、科学系など様々な集会が行われています。
カルチョ・ストーリコとは、古代ローマ帝国時代を起源とした、中世から続くフィレンツェの古式サッカーのことで、現代のサッカーの起源とも言われています。
フィレンツェの中心地を4つの地区に分けて、4チームの争いとなります。 4チームは白のサント・スピリト地区、青のサンタ・クローチェ地区、赤のサンタ・マリア・ノヴェッラ地区、緑のサン・ジョヴァンニ地区です。
サンタ・クローチェ教会前の広場にサッカー場を設営し、当時の装束を身に着けて試合が行われます。
ここ数年は、毎年6月に開催されています。
向かい側には同じくカルチョ・ストーリコの施設として使われているカナッチ宮があります。
1400年代に、商人だったカナッチ一族が成功のあかしとして建設、その後Palazzo Giandonati(ジャンドナーティ宮)と合体しました。
サンタ・マリア・ソープラ・ポルタ教会は、1038年に建設された当時、共和国を取り囲む一番目の壁上に扉が(ソープラ・ポルタ=壁の上)作られていたため、こう呼ばれたといいます。
1200年半ばごろ再築されたときに、向きと立地が変更され、現在の場所になりました。
正面左側に聖バルトロメーオに捧げた礼拝堂があります。
現在では大学の図書館として利用されています。
さて、広場から通りへ進みましょう。
毛皮通りの名前を持つこの通りは、フィレンツェの中でも古い通りの1つで、狭い通りに館と塔が並ぶ、中世のフィレンツェらしい通りでした。ここに毛皮製造者たちのお店と工房が軒先を並べていたそうです。
しかし、1800年代後半の都市整備とともに、歴史地区の西側半分が整備され、それ以前の建物は壊されているので、今ではまったくその様子は見ることができません。
その都市整備の時に空いた土地に建てられたのが、通りの左側の大部分を占めるPalazzo delle Poste(ポステの館)です。
古めかしく見える建物ですが、中世前からある建物の再利用ではなく、1900年初頭、その当時の郵政省の建物として建設され、今でも郵便局として利用されています。
さすが街の中心地にある郵便局だけに、地元民、旅行者問わず、いつもたくさんの人で混んでいます。
混雑を避けたい場合、18時半過ぎに行くとすいていることが多く、比較的短時間で用事が終わります。
1階の部分は柱廊となっており、お土産物屋が軒を並べます。
郵便局の入口向かい側にあるバール、いわゆるどこにでもある普通のバールですが、名前が「Caffe la Posta」と「郵便局カフェ」です。
柱廊の中を進みましょう。
郵便局の建物が終わると、左手にサッカーのチケット、宝くじなどを扱うボックスオフィスがあります。
ちょっと紫色が入っているフィオレンティーナらしいボックスです。
ここの窓口の前では、いつもおじさんたちが井戸端会議をしていて、独特の雰囲気を醸し出しています。
フィレンツェでサッカーを観戦したい方には重要スポットなので、ぜひこの場所を覚えておいてください。
ここを過ぎれば共和国広場で、今回の通りはおしまいになります。
2011年2月 なお