第六十四通り目 Via Ghibellina
(ギベッリーナ通り)
今回はフィレンツェ市内でももっとも長い直線の道であるVia Ghibellina (ギベッリーナ通り)を歩いてみましょう。
この名前を聞いて教皇派と皇帝派を思い浮かべた方はは世界史通、彫刻の博物館を思い浮かべた方は美術通、星つきのレストランを思い浮かべた方はかなりの食通でしょう!
そんな長い通りにスポットをあてます。
通りの名前であるギベッリーナは中世の教皇派と皇帝派で権力争いが行われている頃に生まれた名前です。
教皇派(宗教を持って国を治める)はこの頃のフィレンツェではGuelfi(グエルフィ)、皇帝派(武力を持って国を治める)はGhibellini(ギベッリーニ)と呼ばれていました。
1261年までのこの辺りは、町のはずれでした。
事実、現在のヴェルディ劇場のところに城壁があり、この道はここで行き止まりでした。
1261年この教皇派と皇帝派のMontaperti(モンタペルティ)の戦いにて皇帝派が勝利したのをきっかけに、この城壁に門を設けて町の拡張を行います。
当時のバルジェッロ司法長官(バルジェッロについては後ほど説明)はこの皇帝派(ギベリン派)の勝利を祝してこの門をPorta Ghibellina (ギベッリーナ門)となづけ、これ以降この通りはぎべっりアーな通りと呼ばれるようになりました。
ドゥオモの裏を走るプロコンソロ通りからバルジェッロ博物館の角を曲がり、ここから進んで見ましょう。
バルジェッロ博物館は1200年中盤に僭主の邸宅として建造が開始され、当初はプロコンソロ通りに面したところだけの館でした。
その後フィレンツェのPodesta`(ポデスタ)と呼ばれた最高行政長官の邸宅になり「Palagio del Podesta`(パラージョ・デル・ポデスタ)」、行政長官邸と呼ばれるようになります。この頃ギベリーナ通りは行政長官邸の名前から「司法長官邸通り」と呼ばれていました。
(最初の標識の写真でもこのかつての通りの名前を見ることが出来ます)
そして邸宅も徐々に拡張されていきます。
1400年代後半になると徐々に警備、取り締まりの機能も持つようになり、1574年にはコジモI 世の命でバルジェッロは警察署長邸として利用されるようになります。
Subirro(おまわり、デカ)の意味を持つBargelloバルジェッロの名前で呼ばれるようになります。
18世紀には刑務所の機能も持ち合わせ、処刑もここで行われていました。
その後、修復、回収が行われ1865年に現在のような博物館としてバルジェッロは生まれ変わりました。
ギベリーナ通り側にある木の扉はいかにも頑丈そうな木の扉です。
それもそのはず警察・裁判所の役目を担っていた時代、有罪とされた罪人で刑務所に収監される者はこのギベッリーナ通りを通って刑務所に向かいました。
ひょっとすると罪人が刑務所に向かうために使っていた扉かもしれません。
Museo Museo Nazionale del Bargello (バルジェッロ博物館)
開館時間 |
8:15~13:50
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チケット |
13:20まで
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休館日 |
月の第2、4月曜日 1、3日曜日
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ホームページ |
バルジェッロを過ぎると左手に大きな屋敷があります。
Palazzo Borghese(ボルゲーゼ邸)です。
門の上部と建物の上には同じ紋章が掲げられています。
立派な紋章です、そのわけは、、、
1400年代の有力貴族、サルヴィアーティ家によって建造されました。
17世紀末にアンナ・マリア・サルヴィアーティとローマのマルカントーニオ・ボルゲーゼIV 世王子の結婚によりボルゲーゼ家の所有となります。
マルカントーニオの息子カミッロ・ボルゲーゼは幾多の浮名を流したナポレオンの妹のポーリーヌの夫となります。
残念ながらこの結婚は長くは続きませんでしたが、ポーリーヌが晩年癌を患ったとき、最後の場所を迎えるために再びボルゲーゼの元に戻ってくることとなる。
ポーリーヌはカミッロに看取られて生涯を終えることとなる。
だからボナパルティ家とボルゲーゼ家の合わさった立派な紋章が飾られているのです。
ちなみにカミッロはポーリーヌの死後、トスカーナでもっとも有名な建築家であったGaetano Baccani によって修復されたこのパラッツォで過ごすこととなります。
パラッツォ・ボルゲーゼを過ぎていくと道の角にTabernacolo、小さな祭壇(壁がん)を見ることが出来ます。
先にも書きましたが、1200年代この先行き止まりでした。
その行き止まりのすぐ右側にはCarcere Stinche(スティンケ監獄)がありました。
ちょうど現在のTeatro Verdi (ヴェルディ劇場)でした。
この監獄に収監されるものは、死刑が確定している者でした。
そのため監獄に向かうつかの間、心安らかにするためにこの壁がんが作られました。
ひときわ有名な壁がんはIsola delle Stinche (イソラ・デッレ・スティンケ通り、59通り目にて紹介)の角にあるものです。
この壁がんは1616年にGiovanni da San Giovanni (ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ)によって「キリストと司法判事の前で収監者のために、釈放の許しを請うセッリストリ司法長官」が描かれたものです。
ちょうどイゾラ・デッレ・スティンケ壁がんのギベッリーナ通りをはさんだ反対側の角にはPalazzo Salviati-Quaratesi (サルヴィアーティ・クアラテージ邸)があります。
当初、貴族の屋敷といえば塔が富の象徴でしたが次第に屋敷(Palazzo)の形へと変化してきます。
このサルヴィアーティ・クアラテージ邸はちょうど、そんな建築の流行の過渡期に造られた屋敷です。
さらに進むと右手にヴェルディ劇場があります。
先にも書きましたが、ここはかつて監獄でした。
1300~1800年代、このギベッリーナ通りとGiuseppe 通り(ジュゼッペ通り)の間にはStinche 監獄がありました。
1854年に監獄を廃止し、現在のような劇場を建築しました。
建築された当初はプロジェクト・プロモーターだったGirolamo Pagliano (ジロラーモ・パリアーノ)にちなんでTeatro Pagliano (パリアーノ劇場)と呼ばれていました。
ヴェルディ劇場と呼ばれるようになったのは1901年からです。
当時はイタリアで最も大きい劇場の一つで、5階建てのボックス席が備え付けられました。
最初はオペラのみの公演を行うこととし、1854年の杮落としはヴェルディ作Rigoletto (リゴレット)が上演されました。
時が経つにつれオペラからオペレッタ、さらにはオペラ喜劇、ジャズなどのジャンルのコンサートも行うようになりました。
現在ではこの劇場でフィレンツェ五月音楽祭の公演も行われています。
1998年からトスカーナ・オーケストによって運営され、この劇場は1854年にオープンして依頼、現在まで活動を休止したことはないのです。
かつて城壁のあったヴェルディ通りを渡り、先に進むと右手に門構えが立派な邸宅が目に付きます。
Palazzo Jacometti-Ciofi (ジャコメッティ・チョーフィ邸)です。
1700年代に造られた典型的なフィレンツェ君主の邸宅です。
大きな門をはさむように、ざらざらした一本石を使用した二本の柱が飾られています。
この石はローマから運ばれたものです。
ここは邸宅の特徴よりも、現在ではイタリアの食の世界でもトップクラスのレストランとして知られる、エノテカ・ピンキオリが営業されています。
食いしん坊なら一度入ってみたい高級レストランです。
Enoteca Pinchiori (エノテカ・ピンキオリ)
ホームページ |
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さらに進みましょう。
83番まで進んで扉の上を見ましょう。
石碑があるのがあるのが分かります。
1883年6月28日に没したドゥオモのファザードを製作した建築家Emilio de Fabris (エミリオ・デ・ファブリス)の慰霊碑です。
Via de Pepi (ペピ通り)を渡ると右側の73番地に窓枠がクルクルした装飾で飾られた邸宅があります。
Palazzo Guicciardini Corsi Salviati (パラッツォ・グイッチャルディーニ・コルシ・サルヴィアーティ)です。
扉や窓の渦巻き装飾の奇抜なデコレーションは後期バロックの特徴です。
正面に飾られている紋章はCorsi (コルシ家)のものです。
この邸宅の少し左側にはシンプルだけど存在感のある邸宅があります。
彫刻家ミケランジェロの苗字をつけた建物Casa Buonarroti (カーザ・ボナロッティ)です。
この建物はミケランジェロの曾孫によって、ミケランジェロの死後1612年に建てられました。
ここは現在ではミケランジェロ博物館として、ミケランジェロのイラストのコレクションやフレスコ画、またミケランジェロに続く時代の有名画家の重要作品などが展示されています。
必見は「階段の聖母」や「ケンタウロスの闘い」などミケランジェロの初期の作品です。
ブオナロッティ家は19世紀半ばに途絶え、現在ではフィレンツェ市の所有となっています。
少し先に進みましょう。
角に紋章が飾られたVia delle Conce (コンチェ通り)を過ぎると左側にクリーム色の邸宅が見られます。
Palazzo Vivarelli-Colonna (ヴィヴァレッリ・コロンナ邸)です。
建物はフィレンツェ市の施設となっていて、ここの見所は庭園です。
噴水は一見の価値があります。
入り口はコンチェ通りに面しています。
Il Girdino del Palazzo Vivarelli Colonnna (ヴィヴァレッリ・コロンナ邸庭園)
開園期間 |
4~10月
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開園時間 |
火曜日と木曜日の10:00~18:00
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入場料 |
無料
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Via de Macci (マッチ通り)を過ぎてさらに進むと、右側に古くて寂れた教会らしき入り口が目に付きます。
見るからに今は機能していないのが分かります。
Ex chiesa dei Santi Jacopo e Lorenzo (元サンティ・ヤコポ・エ・ロレンツォ教会)です。
ここに1363年にフランチェスコ派の修道院が造られました。
その後、1542年に建築家Antonio Lupicini (アントニオ・ルピチーニ)によって教会部分が増築されました。
当時はコンチェ通り、Via Conciatori (コンチャトーリ通り)、Via delle Casine (カジーネ)通りによって囲まれた全ての区画でした。
教会内部はマトロネオ・スペリオーレ様式で飾られ、完全に外界と隔離された修道女が儀式の手伝いをしていました。
1808年のナポレオンの侵略の後、この教会と修道院は出版社に引き取られSan Giuliano dei Librai (サン・ジュリアーノ・デイ・リブライ)とも名乗るようになりました。
さらに進みましょう。
今日の散歩ももう少し。
左側にモダンな赤い柱が並ぶ通路が見られます。
その柱の横に隣接した広場がEx monastero delle Murate (ムラーテ元女子修道院)です。
1424年にSantissima Annunziata e a Santa Caterina (サンティッシマ・アンヌンツィアータ・エ・ア・サンタ・カテリーナ)という名をもって造られました。
ここが女子修道院で完全に外界とは隔離されていたため女性名詞、しかも複数形のMurate (壁でふさがれた)の名前がつけられました。
1471年には火事、1571年には洪水による被害を受け、そのたびに修復、拡大を続けました。
前出のスティンケ監獄が1854年に廃止されると、スティンケ監獄の役割はこのムラーテへと移され、ここの女子修道院の幕はおります。
その後1880年まで監獄として使用されることとなります。
現在は修復が終了して、オフィスやレストランが並ぶ新しいスペースとして使用されるようになりました。
広場の周りには監獄もしくは修道院時代のものと思われる扉を実際に使っている部分もありますので、昔の雰囲気を感じることも出来ます。
少し薄気味悪いですけどね。
広場の公衆トイレの横から通路に入り見上げると、昔の監獄が今は住居として残っているのを見ることが出来ます。
またここから通りに出たすぐ横はCappella di Santa Maria delle Nevi (サンタ・マリア・デッレ・ネーヴィ礼拝堂)の入り口があります。
1500年代末に造られた礼拝堂ですが、現在はファザードしか残っていません。
シンプルなティンパスムを乗せた大きな中央の扉、丸い小さなガラス窓と半円形に上部を飾られた小さな扉を左右に配し、中央扉の上には大きな窓、そして上部はとんがり三角となっています。
1966年の大洪水で修復不可能なダメージを受けて閉鎖されました。
お疲れ様でした。
今回は東に伸びるまっすぐの道、モニュメントを中心にお送りしました。
2011年4月 横田