第七十一通り目 Via Orsanmichele e Via dell'Arte della Lana
(オルサンミケーレ通りとアルテ・デッラ・ラーナ通り)
町の中心Duomo(ドゥオモ)とPiazza Signoria(シニョーリア広場)の間に位置するVia Orsamichele(オルサンミケーレ通り)とVia dell'Arte della Lana(アルテ・デッラ・ラーナ通り)。
同業組合が力を持っていたフィレンツェの歴史を垣間見られる通りを紹介します。
9世紀頃のロンバルド時代、ここは畑(イタリア語でOrto「オルト」)でその中に女子修道院がありました。
修道院内にあった祈祷所が後にサン・ミケーレ・アルカンジェロに捧げられた教会となりSan Michele in Orto(サン・ミケーレ・イン・オルト)、つまり「畑の中にあるサン・ミケーレ教会」となり、それが今の名前オルサンミケーレとして残りました。
1240年には教会から穀物市場になり、フィレンツェのドゥオモを最初に設計したアルノルフォ・ディ・カンビオにより1290年頃ロッジア(開廊)が建てられ商業の場として発展するようになりました。
これと同時に、建物内に描かれていた聖母マドンナ画が数々の奇跡を起こしたと言われ、多くの信仰を集める場所でもありました。
そんな中、1304年7月10日に火災が起こり焼失。
この火災は1300年代のグエルフィ党(教皇派)内の黒党と白党の争いの際の黒党側の放火と言われており、同じ時期に1700もの建物が火災にあったとされています。
1337~1349年に建物は再建され、現在のような長方形の建物になりました。
再建中の1346年にはBernardo Daddi(ベルナルド・ダッティ)が今まであった聖母マリアに代わりMadonna delle Grazie(恩寵のマリア)を描き、1348年にペストが大流行した際に数々の奇跡を起こしたことで信仰は更に強いものとなりました。
ペスト終焉後、Andrea Orcagna(アンドレア・オルカーニャ)によって「恩寵のマリア」をおさめる大理石の祭壇が造られました。
教会内は写真撮影禁止なので、外にあったポスターからその素晴らしさをご覧下さい。
1350年代後半から1360年代初めに市場は他の場所へ移動し、1380年には市民的及び宗教的意味を持つ建物となり穀物倉庫として上2階が増築され、更にロッジアだった1階部分を塞ぎ、ゴシック様式の素晴らしい窓枠が取り付けられました。
San Matteo(サン・マッテオ)1404年の建物完成後、周りの14のタベルナーコロ(壁がん)には同業組合の守護聖人像が設置されることになりました。
像の制作は一斉に行われたわけではなく、14世紀終わりから17世紀初めのそれぞれ異なる時期になったため、結果、各時代の有名彫刻家達の作品がズラリと並ぶ美術的にとても貴重な聖人像が誕生しました。
Santo Stefano(サント・ステファノ)
San Giovanni Battista(洗礼者聖ヨハネ)
現在オリジナルが残っているのは両替商組合のブロンズ像San Matteo(サン・マッテオ)のみで、他の像のオリジナルは教会内にある美術館におさめられています。
像が造られた時代、ブロンズは大理石の約10倍もの費用がかかったためブロンズ像で造れた組合は両替商組合の他、毛織物組合のSanto Stefano(サント・ステファノ)、カリマラ(毛織物貿易商総合組合)のSan Giovanni Battista(洗礼者聖ヨハネ)の3体のみでした。
San Marco(サン・マルコ/ リネン・古物商組合)
San Pietro(サン・ピエトロ/ 食肉業組合)
San Luca (サン・ルーカ/ 裁判官・公証人組合)
有名彫刻家の作品としては、ブロンズのダヴィデ像(バルジェッロ美術館蔵)をつくったDonatello(ドナテッロ)によるSan Marco(サン・マルコ/ リネン・古物商組合)、ドゥオモのクーポラを建設したBrunelleschi(ブルネッレスキ)とドナテッロによるSan Pietro(サン・ピエトロ/ 食肉業組合)、ボーボリ庭園やシニョーリア広場のロッジアにある「サビニの女たちの略奪」を手掛けたGiambologna(ジャンボローニャ)によるSan Luca (サン・ルーカ/ 裁判官・公証人組合)などがあります。
オルサンミケーレ教会では、Orchestra da Camera Fiorentina(カメラ・フィオレンティーナ・オーケストラ)によるコンサートも開かれ、昔同様市民達にも親しみのある教会として存在しています。
「Chiesa e Museo di Orsanmichele」(オルサンミケーレ教会・美術館)
住所 |
Via dell'Arte della Lana
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開館時間 |
教会 毎日10:00~17:00
美術館 月曜10:00~17:00
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入場料 |
無料
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ホームページ |
オルサンミケーレ通りに並んでいるテラス席と同じ並びにあるMauro Volponi(マウロ・ヴォルポーニ)は靴・鞄・ジャケット・ベルトを扱い、トスカーナのリゾート地Forte dei Marmi(フォルテ・デイ・マルミ)やフランスにも店舗を持つブランドのフィレンツェ店です。
高品質な素材を使い、カラフルでファッション性に富んだ商品を扱うここは、革製品を求めてフィレンツェに来た方は要チェックの一店です。
「Mauro Volponi」(マウロ・ヴォルポーニ)
住所 |
Via Orsanmichele,12r
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TEL |
055-211900
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ホームページ |
マウロ・ヴォルポーニの左隣りは食肉業組合の本部があった建物で、今でも上階には組合の紋章だった雄ヤギのレリーフが残っています。
食肉業組合の前、、オルサンミケーレ教会と2011年12月現在建物全体をシートで覆われている建物の間の通りはVia dell'Arte della Lana(アルテ・デッラ・ラーナ通り=毛織物組合通り)です。
フィレンツェの繁栄には欠かせない組合の名前が付いています。
シートで覆われている建物は、もともとフィレンツェから東に約10kmに位置するCompiobbi(コンピオッビ)出身のCompiobessi(コンピオベッシ)一族が12世紀に建て、その後1308年から毛織物組合が置かれました。
カリマラと並び毛織物業は当時とても力を持っていた職業で、フィレンツェの労働人口のうち約3分の1は毛織物業に従事していたと言われています。
この建物とオルサンミケーレ教会を結ぶ空中回廊はBernardo Buontalenti(ベルナルド・ブゥオンタレンティ)によって1569年に取り付けられ、オルサンミケーレ美術館へと続く通路になっています。
ブゥオンタレンティは、ジェラートを冷蔵出来る機械を作り、フィレンツェのジェラート屋さんでよく見かける味ブゥオンタレンティ(生クリームとクリーム)を作ったフィレンツェ出身の建築家・彫刻家・画家・エンジニアです。
建物の角にあるタベルナーコロ(壁がん)は、フィレンツェがイタリア王国1865~1871年の首都になった際の都市開発によって取り壊された旧市場(現在の共和国広場)にあったものがここへ移動されました。
フィレンツェ経済を担っていた人達が行き交った通りと建物は、今もフィレンツェの繁栄を願うかのように時代を超えても存在感を出していますね。
昔の商人達、職人達の姿を想像しながら、この界隈を歩いてみて下さい。
2011年12月 宮崎